古い山にはいい花が残っている[山形ビエンナーレ2024私的随想録⑨]|連載?小金沢智の、東北藝術道#11

コラム

2年に一度の芸術祭として、はじめて蔵王温泉(山形市)と本学を会場に実施した「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2024」が2024年9月16日に終わってから、早くも9ヶ月が経とうとしている。夏から秋、冬、春と季節が移りゆき、今年もまた夏が訪れようとしていることに驚く。昨年の今ごろは、まだ、各所での展示の目処がつかずあくせくしていたが、文字通り紆余曲折ありなんとかできあがったビエンナーレでは、来場者の方々をお迎えする嬉しさとアーティストの素晴らしい作品がそこここにあることの高揚感、そして作品保全のため、会期中毎日蔵王に行き、ときには積極的に泊まって、濃密な16日間を過ごした。

私が中心になって12組のアーティストらとともにつくった周遊型展覧会は「ひとひのうた」といって、「ひとひ(一日)」を「うた」とともに過ごすように土地をめぐっていただきたいという意図から名づけたものだった。「ひとひ」というアイデアは、山形ビエンナーレ2024芸術監督?稲葉俊郎先生の著書『ことばのくすり』(大和書房、2024年)を着想源とするによるもの。展覧会に際して、稲葉先生には「未明」「朝」「昼」「夜」についての文章を書き下ろしていただいた。それらの内容は、今年1月に公開した記録映像で、稲葉先生ご自身の朗読によっていまも知ることができる(稲葉先生に朗読していただくというユニークなアイデアは、映像撮影?編集の岡安賢一さんによるもの)。

周遊型展覧会「ひとひのうた」記録映像(みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2024 いのちをうたう) 撮影?編集:岡安賢一 制作:東北芸術工科大学

そして、展覧会のアーカイブとして記録映像だけで飽き足らず、この16日間を忘れたくないという私の個人的かつ過剰に強い思いは、もともと予定をしていなかった本の制作となってビエンナーレをさながら延長させ、先月、それがようやく形になった。私が編著者となって、横浜の出版社モ?クシュラから刊行したのが、『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』である。本連載の第7回第8回も収録している。今日(2025年6月4日)、この「歌は待っている」という書名の由来となった、伊藤仁さんにビエンナーレ以来の面会がかなったので、そのことを書き記して、この「山形ビエンナーレ2024私的随想録」を締めくくりたい。

小金沢智編著『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』モ?クシュラ、2025年
小金沢智編著『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』モ?クシュラ、2025年

伊藤仁さんは、惠子さんとともに、蔵王温泉の高湯通りで数十年の長きにわたって旅館?伊藤屋を経営されていらっしゃって、私は準備段階から何度も泊まらせていただいた。一人で、あるいは友人や知人に声をかけて。そのたびごとに、仁さん、惠子さんは優しく迎えてくださって、ときに蔵王の歴史や風土のことについてお話ししてくださった。ただ、ビエンナーレ終了から少し経った2024年11月、ご高齢になられたということから、おふたりは伊藤屋を閉館。現在は、山形市に隣接する上山市に転居され、毎日を過ごされている。ご自宅から蔵王連峰を毎日眺めているという。これは、写真を長く撮られている仁さんによる、上山から蔵王連峰をとらえた写真である(ご許可を得て、掲載させていただきました)。

撮影:伊藤仁 2025年1月に伊藤さんから筆者へいただいたメールに添付
撮影:伊藤仁 2025年1月に伊藤さんから筆者へいただいたメールに添付
撮影:伊藤仁 2025年1月に伊藤さんから筆者へいただいたメールに添付
撮影:伊藤仁 2025年1月に伊藤さんから筆者へいただいたメールに添付

さて、「由来」とは何かというと、本来、展覧会のカタログというのは、展覧会名がそのまま書名になっていることが一般的である。そうでなければ、展覧会とカタログが一対一の対応関係にあることがわからなくなってしまうから当然だ。けれども、『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』では、展覧会名は副題に(いわば)後退して、「歌は待っている」がメインタイトルになった。これは、これまで10数冊のカタログを学芸員/キュレーターとしてつくってきた私として、とても思い切ったことで、そんなことはこれまでしたことがない。

小金沢智編著『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』モ?クシュラ、2025年
小金沢智編著『歌は待っている 風と土と「ひとひのうた」と』モ?クシュラ、2025年

だが、編集者の大谷薫子さんからの「展覧会の記録だけではなく、展覧会の前後でキュレーターが考えたこと、感じたことまで収録したのは、展覧会というものを、それを創り出すキュレーターの日々の思考や情動、「傷」といったものと、地続きで捉えたかった」(モ?クシュラWebサイトより)という思いや、本に私との対談を収録させていただいたシンガーソングライターの前野健太さんからの「小金沢さんの歌を載せたらいいんじゃないかな」という声がけなどが重なって、思い切ったことを今回してみたのだった。「歌は待っている」は、前野さんからの提案を素直に受け、本気になった私が、伊藤仁さんから今年の年初にいただいたあるメールから強いインスピレーションを得てつくった、「待っている」という19行からなる詩(歌)のフレーズのひとつである。その全文?経緯などはぜひ本を読んでいただくとして(*)、ともかく、今日、本をお渡しするとともにそのお礼を伝えるため伊藤さんご夫妻に会いにいったのである。

本をお持ちすると、とても喜んでくださって、私としては、こうしてビエンナーレでお世話になった方が喜んでくださることがただただ有り難く、本をつくってよかったなぁとそのたびに思うのだが、仁さんは、伊藤屋に泊まらせていただいていた頃と同じように、私の知らない蔵王のさまざまなことを今日もお話しくださった。「でも、もう本はできちゃったからこれは入れられないね(収録できないね)」とはにかむ姿がチャーミングで、本はできたけれども、私は私で今日の話を忘れないようにしたいと思い、この小文を書いている。

その会話で、写真家の高山文夫さんが2025年4月に刊行された『蔵王花心』という一冊を教えていただいた。これは、蔵王に自生している326種類もの植物を掲載する「花のガイドブック」で、高山さん自ら撮影された花の写真が、「超アップ」で収録されている素晴らしい1冊だ。私は、花に興味はあるが、名前を全然知らないので(それは「興味がある」とは言えないのかもしれないが…)、蔵王にこれほどまでに多くの植物が生えているということをまったく知らなかった。そしてそれらの花々は、山や高度などの違いによって異なるのだという。

仁さんは山岳インストラクターでもあるため蔵王の植物には精通していらっしゃり、この日、花についてもいろいろ話をしてくださったのだが、そのなかで、「古い山にはいい花が残っている」という言葉が私にはとても印象的だった。蔵王連峰ではとりわけ、「わすれじのやま」と呼ばれる「不忘山」(ふぼうさん)がそれにあたり、不忘山には、仁さん曰く「いい花」が多く残っているのだという。面白い。私は、山が古いか新しいかということなんて、考えたこともなかった。「いい花」というのもどういうものなのか、私には勉強が足りないが、とてもとても長い時間をその身の遺伝子に残している花ということだろうか。なんであれ、仁さんが、ともにこの世界に生きている存在として、山や植物と関係を持っているということがよくわかる言葉だと思う。

芸術というのは人工的なものである。人間によってつくられて、人間によって受容される。しかもその「人間」とは、つくるものも、受容するものも、美術の専門家である場合がしばしばだ。そういう「狭さ」がある。そう思っていたが、私は蔵王温泉という類稀な土地で開催がかなった「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2024」を通して、そればかりではないという思いを今、強く持っている。お世話になった、土地に生活する人たちや、自然や植物、動物に対して、なにかを返したい。返礼のように。そう、私たちの誰も彼も、いずれこの世界からいなくなる。けれど、たとえば「芸術」と呼ばれるものを通して誰かや何かの思いや記憶を繋げていくことができるならば、私(たち)もまた「古い山」となって、美しいものがここに生まれ続けるための土になることができるかもしれない。芸術は、そのためにあるのではないか。

本学のTUAD STOREほか、著者のBASEで販売中。定価6,000円(税別)。 https://www.koganezawasatoshi.com/uta.html
https://koganezawa.base.shop/items/108267695

(文?写真:小金沢智)

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小金沢 智(こがねざわ?さとし)
小金沢 智(こがねざわ?さとし)

東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース専任講師。
キュレーター。1982年、群馬県生まれ。2008年、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。専門は日本近現代美術史、キュレーション。世田谷美術館(2010-2015)、太田市美術館?図書館(2015-2020)の学芸員を経て現職。
「現在」の表現をベースに据えながら、ジャンルや歴史を横断するキュレーションによって、表現の生まれる土地や時代を展覧会という場を通して視覚化することを試みている。